「お茶の間」のルーツをご存じ?「居間」「リビング」とは何が違う?

現在ではあまり使われなくなった言葉かもしれませんが、昔から家族が集まる居間を「お茶の間」と呼んできました。生活様式が欧米寄りに傾き、住宅の間取りや家具も大きく変わった日本の家庭ですが、「お茶の間」という言葉からは家族団らんのイメージが連想されます。では、どうして居間のことを「お茶の間」と呼ぶのでしょうか。お茶を飲みながら家族が過ごす場所だから?実は、歴史をひも解いてみると、意外な事実が浮かび上がってきます。
「お茶の間」のルーツを作ったのは武士の存在
「お茶の間」という言葉のルーツには諸説ありますが、その源流をたどっていくと、意外にも武士の時代にまでさかのぼります。武士が政治や社会の中心を担ったのは、平安時代後期(11世紀後半から12世紀末にかけて)にはじまり、徳川家が覇権を握った江戸時代末期までとされています。この時代、もともとは貴族の警護や地方の治安維持を担う存在であった武士が徐々に政治の実権を握るようになり、武士道という倫理観や価値観を形成し、武勇によって名を馳せるようになっていきました。一方、日本でお茶を飲む習慣は貴族階級から始まりましたが、大きな権力を握り始めた武士階級も好んでお茶を喫するようになります。
武家屋敷で培われた茶の間の文化
江戸時代になると、武士は高い身分や大きな石高を得て、武家屋敷を構えるようになります。その構造は複雑であると同時に、武士の格式や権威によって大きさもさまざまでした。上級武士、いわゆる大名クラスになると、広大な敷地に武家屋敷を構えることができ、江戸では大名屋敷が江戸城の約60%もの土地を占めたと言われています。武家屋敷の構造的な特徴は、来客をもてなす「表」と、家族が生活する「奥」という2つの空間に分けられていた点です。
公的な役割と機能を担った「表」
武家屋敷内で「表」とされた場所は、当主が家臣と政務を執ったり、さまざまな儀礼、儀式に使われたり、来客を接待したりする役割を担っていました。「玄関」に始まり、「書院」「座敷」、さらには「控えの間」があり、武家屋敷の中でも大きなスペースを占め、格式の高さを表すために豪華な造りが好まれました。
私的な空間として使われた「奥」
「表」が公的な空間であることに対して、当主の家族や使用人らが暮らす私的な空間にあたるのが「奥」です。当時の当主は正室の他に側室を持つことが多く、たくさんの子どもたちや奥女中が「奥」で生活を送っていました。「寝所」や「台所」があり、原則としてその家の人間以外が立ち入ることができません。たくさんの「間」がある中に「居間」があり、お茶を点てて家族だけの時間を過ごしていたのです。これが、現在で言う「茶の間」の原型であるとされています。
「茶の間」は家族が集う癒しの空間
時代が進んで明治になると、一般の家屋にも「茶の間」の概念が広がります。台所の近くに居間が設けられ、食事をしたり団らんの時間を過ごしたりするようになり、生活の中心的な空間へと変わっていきます。さらに時代が進んで現代では、居間にテレビが置かれ、家族みんなで過ごす場所として定着したことから、「居間=茶の間」と呼ばれるようになりました。
時代を問わずお茶でつながる日本の家族
「居間=茶の間」が家族と過ごす場所であり続けてきたと同時に、その中心にはいつの時代にもお茶がありました。お茶は単なる飲み物ではなく、家族の団らんやコミュニケーションのシンボル的な存在であるとも言えるでしょう。職場や学校などそれぞれの場所で過ごした1日の終わりを告げるのにふさわしいのが、お茶の間でのひと時。温かいお茶を淹れて、ほっと一息ついてみてはいかがでしょうか。